ポルトガルの国旗は、緑と赤の不均等な2つの部分に分かれており、緑が左側にある。色を区切る線は、腕球とポルトガルの国章を描いている。
ポルトガルの国旗は、緑と赤の不均等な2つの部分に分かれており、緑が左側にある。色を区切る線は、腕球とポルトガルの国章を描いている。
ポルトガルの国旗は
現在のポルトガル国旗は緑と赤が主体で、以前王政で使われていた青ではなく、新しい政治形態を表すために選ばれた。
緑が国旗の1/3を占め、赤が2/3を占めるのは、イベリア統合主義プロジェクトを連想させるからである。このように、緑はポルトガル、赤はスペインであり、ユートピア的な連邦主義の形で統合されている。
腕木球(ラテン語のarmilla-腕輪、輪が語源)は、天体の座標を決定するための天文機器である。マヌエル1世(1495-1521)によって導入され、君主を五大陸の王として表した。鎧球は、16世紀に使われていた古い地球儀を様式化したものである。また、航海術の発展に大きく貢献した航海士ヘンリー公の個人的なシンボルでもあった。国旗に球体が描かれている背景には、ポルトガルが15世紀後半に大西洋を横断してアメリカ大陸に到達し、長距離の海洋探検の経験を持っていることがある。この時代は大航海時代と呼ばれるようになった。そのため、腕木球はこの偉業の象徴であり、ポルトガルの国旗には緑と赤の色分けがされ、金色の枠の中に描かれている。
盾の形をした紋章はポルトガル最古のシンボルであり、まだコンダード・ポルトゥカレンセと呼ばれていたポルトガルの起源にまで遡る。この紋章は、白地に盾の形をした7つの錠と5つの青いシェブロンで構成されている。それぞれ3つの塔を持つ7つの黄色い城は、大西洋を望むポルトガル南部のアルガルヴェ地方に現存する城を表している:
盾の全体の構成は、8世紀以降イベリア半島を占領したムーア人に対するポルトガルの勝利を意味している。赤地に描かれた城は、ドミニク・アフォンソ・エンリケスの時代にポルトガルが再征服した領土の要塞で、ムーア人の支配下にあった。青いシェブロンは、ポルトガルに敗れたムーア人の5人の王を表している。それぞれの盾の内側にはベザントがある。
紋章学では、ベザントはコインを表す金(黄色)または銀(白色)の円として描かれる。もともとはポルトガル王国の富を表すために使われていた。このシンボルの最も一般的な解釈は、イエス・キリストの傷を象徴しているというものだ。この盾が十字架の形になったのは、アフォンソ3世(1248~1279年)の時代になってからで、ポルトガルをキリスト教の起源と結びつけている。
ポルトガルの現在の国旗は、1143年に制定された最初の国旗から約800年後の1911年に採用された。当時の国旗は主に白と青で構成されており、1183年頃に白と青が加えられた。
13世紀には、現在とは数や配置は異なるが、赤いストライプの城がポルトガル国旗の一部となった。その後何世紀にもわたり、国旗は何度か変更され、特にポルトガルの王位に就いていた君主が変わるような政権交代の時期には、国旗も変更された。
たとえば15世紀には、王冠とともに盾が国旗に取り入れられた。ドン・マヌエルの治世には、腕輪が彼の個人的な旗となった。このシンボルはまだ国旗の一部ではなかった。
ポルトガルが新しい国旗を採用したのは、1580年から1640年にかけてスペインとポルトガルの王位が統一されたイベリア連合の時代である。ブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル・アルガルヴェ連合王国が誕生した19世紀初頭のことである。この時の国旗は、ポルトガルの紋章、腕輪、王冠で構成されていた。
ポルトガル王政最後の国旗は、青と白を基調とし、王家の紋章と王冠が描かれていた。1910年10月5日、ポルトガルに共和制の新体制が発足すると同時に、緑と赤が国旗の色となった。
同年、新しい国旗をデザインする委員会が設置され、11月29日に承認された。1911年6月19日に政府によって正式に採用された。