現在のアンゴラの地に何らかの旗が存在するよりはるか以前から、この地には強大な国家が栄えていました。なかでも最大だったのがコンゴ王国で、14世紀から19世紀にかけてアンゴラ北部から現在のコンゴ共和国にまたがる広大な版図を誇っていました。1484年にポルトガルの航海者ディオゴ・カンが海岸に上陸し、まもなくポルトガルとコンゴの間に交易関係が築かれました。1575年にポルトガルがルアンダを建設——現在もアンゴラの首都であり続ける都市です。16世紀から19世紀にかけて、アンゴラは大西洋奴隷貿易の主要な中継地となり、諸説ありますが約400万人がその港から強制的に連行されたと推定されています。
ポルトガル植民地支配の時代(1575〜1975年)、アンゴラ独自の旗は存在しませんでした。この地に翻っていたのはポルトガルの国旗であり、行政機構には植民地の紋章が使われていました。
1956年、ルアンダでMPLA(アンゴラ解放人民運動)が結成されます。この組織はムブンドゥ族と都市知識層を主な基盤として急速に成長し、反植民地運動の中心的な勢力となりました。1961年に武装闘争を開始し、それと同時に最初の党旗——赤と黒の縞地に黄色い星を配したもの——が登場しました。並行して他の2つの運動も活動していました。オルデン・ロベルトが率いるFNLA(アンゴラ民族解放戦線)と、1966年にジョナス・サヴィンビが創設したUNITAです。
旗章学者の一部は、MPLAの党旗と南ベトナム解放民族戦線の旗——赤と青地に黄色い星——の類似性を指摘しています。MPLAが意識的にこのデザインを模倣したのか、それとも当時の左翼運動に共通した象徴体系が重なったに過ぎないのか——確かなことは言えず、どちらの解釈も一理あります。
1974年4月25日、ポルトガルの若い将校たちがリスボンでクーデターを起こし、独裁政権を打倒しました。いわゆる「カーネーション革命」は、植民地の解放を拒んでいたサラザール体制の後継政権(エスタード・ノヴォ)に終止符を打ちました。1975年1月には3つのアンゴラ解放運動がアルヴォル協定に調印し、暫定政府の樹立と独立の期日——1975年11月11日——が定められました。

しかし休戦は長くは続きませんでした。1975年7月、MPLAがFNLAをルアンダから追い出し、UNITAは自ら南部へと退きました。この戦線で対峙していたのはアンゴラ人だけではありません——アメリカとザイールはFNLAとUNITAを、ソ連とキューバはMPLAを支援し、南部では南アフリカ軍が作戦を展開していました。1975年11月10日、ポルトガルはいずれの勢力にも権限を移譲することなくルアンダを去りました。11月11日の真夜中、MPLAの指導者アゴスティーニョ・ネトがアンゴラ人民共和国の独立を宣言し——その夜のうちに、ホアキナ、ルース・ララ、シシ・カブラルが新国家の最初の正式な国旗を手縫いで仕上げました。
独立は平和の始まりではありませんでした。MPLAとUNITAの内戦は27年間にわたって続き、ジョナス・サヴィンビが2002年2月22日に死亡したことでようやく幕を閉じました。その間、国旗は一度も変更されませんでしたが、1992年の憲法改定では「革命」が「国家防衛」に、「インターナショナリズム」が「国際的連帯」に書き改められました。内戦終結後の2003年、議会は和解の象徴として、またマルクス主義的な象徴からの決別として国旗変更案を審議しました。「カティカ」という匿名で応募されたデザインが優勝しました——青・白・赤の横縞に、ナミベ州のチチュンドゥ・フルに残る岩壁画をモチーフにした金色の太陽を配したものです。しかしこの案は採用されませんでした。国旗を変えることは独立闘争の記憶を消すことだ——そう考える人々が社会の大きな割合を占めていたからです。